去る12月18日(日)、上智大学12号館にて第10回Sapientia会研究会が開催されました。当日は厳しい日差しの照りつける中でしたが、史学専攻の院生のほか、学部四年で卒業論文の執筆の提出を終えた学部生も交えた報告会となりました。今回は、幅広いテーマからご報告をいただき、参加者・発表者共に今後にむけた一つのステップとなったのではないかと思います。
以下に報告の要旨と、質疑応答の様子を紹介します。ご参加くださった方には内容の再確認として、また今後の Sapientia会研究会に興味のある方には、会の様子を知る一助としていただければ幸いです。
なお、Sapientia会では、報告会(次回は2017年上半期を予定)の発表者および会誌『紀尾井論叢』の投稿者を 随時募集しております。専攻に関わらず、意欲ある皆様の研究発表の場をご用意しておりますので、関心のある方はお気軽に当会アドレスまでご連絡ください。
《第1報告》
古代中国における異民族認識と境界――羌の事例――
文学研究科史学専攻博士課程後期 酒井駿多
本報告では、古代中国における異民族の呼称に関して、特に涼州から益州周辺に存在した「羌」の事例を取り上げて考察をおこなった。まず、「羌」は漢代、特に後漢期には王朝を悩ませる存在として史料中にも頻出する人々であるが、その呼称は同一史料内でも揺らぎがあり、史料上での「羌」という文字自体の用法を確認する必要があることを説明した。『後漢書』には西羌伝という「羌」に関する列伝が残されているが、この中では漢に対抗するうえで中心的役割を果たした焼当種や先零種といった涼州に基盤を置く一部の種の動きが軸となって描かれる傾向にあり、益州北部に存在した種はその指揮下で動いていたかのような記述がなされている。しかし、『華陽国志』等の他資料と比較をしてみると、益州の「羌」の独自性が明らかとなり、羌乱において必ずしも涼州の「羌」の指揮下に入っていたとは言えないという点を指摘した。
また、白馬種をはじめとする武都近辺に存在した「羌」の呼称に関して検討を進め、これらの種に関しては前漢期には「氐」と呼称されていたものの、後漢期以降にはその呼称が「羌」と変化しており、三国期になると再び「氐」とされているということがわかる。これは後漢後期に起きた羌乱によって王朝側の「羌」概念が拡大した結果だと言える。これらの「羌」や「氐」という漢人からの呼称に関しては、血縁等の歴史的連続性よりも、従属・敵対といった時代ごとの王朝との関係によって変化しているものであり、一般的な民族呼称と同様に扱うのは危険であり、史料を読み解くうえで留意していかねばならないとして報告を終えた。
質疑応答においては個々の史料の性質や編纂者自身の経歴等に関して質問があった。『後漢書』『華陽国志』などの史料の性質や編纂者に関する通説を述べた上で、それらの史料が基にしたであろう『東観漢記』等の散逸してしまった史料などをどのように取り入れているかという点にも注意していかねばならないという点を確認した。史料状況を考えると非常に慎重にならざるを得ない分野であるということを改めて確認する良い機会となった。
発表者近影
《第2報告》
平安時代における稲荷信仰の担い手
文学研究科史学専攻博士前期課程 西山裕加里
本報告では、11世紀の稲荷祭がどのような層に・何故彼らによって担われたか、についての考察を行った。12世紀以降の稲荷祭は平安京内における「七条人」に担われたが、それ以前の稲荷祭においても同様であると思われる。それについて論じるために「七条」という場に着目した。12世紀以降、七条は商工業民が多数居住する場であったが、11世紀においても同様に商工業民が存在した場であることを確認し、そのような層が存在した理由として、東市と当該期におけるその衰退を挙げた。次に、10・11世紀という時代に注目した。10・11世紀は御霊会や祇園会、公祭以外の松尾祭など平安京内で都市民による祭が多数はじめられた時期であり、稲荷祭もそのような流れの中で発生した祭であると述べた。また、彼らがこのような祭を行うことができた背景には平安京内における「地縁共同体」の成立があり、その成立を表す存在として「保刀禰」と「在家」を挙げた。最後に、稲荷祭が都市民に担われた理由の一つとして、朝廷が稲荷社に特別な信仰を持っていなかったことを述べた。その理由としては、平安時代における公祭の定義に当てはまらなかったこと、また、稲荷神を氏神とする山城国深草の秦氏の勢力が平安時代には衰えており、そのため稲荷社も朝廷に認識されるのが遅かった、という二点が考えられる。
以上、11世紀における稲荷祭は七条に住む都市民によって担われ、その理由には10・11世紀という時期と、山城国における深草秦氏の衰退と朝廷からの特別の信仰の不在が挙げられることを本報告では述べた。
質疑応答では「都市民」の定義について問われた。報告者は平安京内の定住=都市民の発生、と述べたが、人と物の流動性こそが都市が都市たる所以ではないか、と指摘を受けた。時間の関係上、長く議論するには至らなかったが、定着することと祭の創始について、そして「共同体」という観点からももう一度考えたい。
《第3報告》
大正新教育運動と澤柳政太郎の生涯
文学部史学科 小川一樹
本報告は、2016年度学位論文(学部)「大正新教育運動と澤柳政太郎―大教育家の理想的小学校観を探る―」を加筆修正したものの一部である。
報告内容については、最初に問題意識・研究課題として、明治期から大正期にかけて活躍した教育家である澤柳政太郎という人物に関する二点の研究課題(「かつては文部省で教育政策を主導してきた澤柳がなぜ一般民衆の視点に立ち、教育改革に全力で取り組んでいこうと考えたのか」「澤柳が成城小学校において具体的にどのような教育活動を行ってきたのか」)と大正新教育運動に関する研究課題一点(「大正新教育運動の様相はどのようなものであったのか」)を提示し、執筆に利用した主要参考文献について紹介した。
今回、報告内容の大筋は大きく三点に分けた。第一に、澤柳政太郎の誕生から成城小学校の運営を担うまでの彼の生い立ちについて解説し、第二に、澤柳が経営した成城小学校がどのような教育を生徒に施したのか、また、彼の思想がどのように成城小学校での教育に結びついているのかということについて成城小学校の教育目標や時間割などを用いながら紹介した。第三に、大正新教育運動がどのようなきっかけによって巻き起こったのかということに加え、及川平治や木下竹次などといった教育者の実験学校における教育実践や欧米や西洋から伝わってきた教育理論について複数事例をあげて紹介した。
小結として冒頭で述べた研究課題三点に対する一応の結論を提示し、報告を終えた。質疑応答では、成城小学校で行われたダルトン・プランという教育活動に関する補足説明や上田万年と澤柳による全国共通日本語教科書の策定計画に関する具体的な説明などが求められた。今後の課題としては、ドルトン・プランを中心に成城小学校の教育活動や卒業生による学校評価や、現在の成城学園に受け継がれている理念などをより深く研究し、当時の成城小学校の教育制度理解や澤柳の教育思想についてより深い理解を求めることを目標としたい。
発表者近影
《第4報告》
「言語論的転回」との向き合い方――実証史学の観点から
文学部史学科 山野弘樹
「ヒストリオロジー(現代歴史哲学)」の観点から行われた本報告は、卒業論文「『歴史』の意味についての認識論的考察――『主客二元論』の観点から」における第一章「現代における『歴史』概念の多義性」を議論の基礎として、30分の発表の枠内に収められるように若干のアレンジを加えたものである。しかし本報告は第一章の内容を紹介することに留まらず、卒業論文の「結論」部分を執筆した段階では未だ明確化されていなかった論点に一つの方向性を与えるという試みも併せて行っている。
まず、そもそも「言語論的転回」とは何かという点を明示するところから報告を始め、哲学における「転回」(「意識」から「言語」へ)と歴史学における「転回」(「対象」から「表象」へ)の間における差異を指摘した。このような形で「転回」理論を主題化しつつ、その思潮を受容した地平において「歴史」という概念がいかなる多義性を呈するように至ったかという点を、それぞれ代表的な論者(遅塚忠躬、二宮宏之、鹿島徹、岡本充弘の計四名)の歴史理論に言及しながら明示化した。ここで紹介した歴史理論の配列は、「事実」概念を次第に軽視していく傾向と連動しており、その果てに控えているのは、「ポストモダニズム」の旗印の下、「真理」や「事実」といった概念の権力性を糾弾し、政治還元的な立場から「事実問題」を「倫理問題」へと転換して議論を再構成しようと目論む「脱構築」的思潮である。
報告者としては、このような学問における倫理面を問題にする批判意識に共感しないところがないわけではない。しかし、だからといって一切の事実面を棄却してしまうのは安易な相対主義を招来するように思われる。そこで本報告において行った問題提起は、主客二元論を前提とした「客体」としての「事実」と、相互関係性を基調とする主客非分離の立場から出来事を捉える〈事実性〉を、明確に分けて考えるべきではないかという提案であった。「主観的解釈から独立した客観的事実」という意味における「事実」とは「超越」的な存在であり、その意味で人間的認識とは縁のないものである。認識は常に「身体」と「存在」が関わり合うところに生起するものであり、だからこそ、私たちは新たな「パースペクティヴ」から存在と対峙するとき、それに応じた〈事実性〉を捉えることができるのである。
「事実」ではなく〈事実性〉を探求する実証的姿勢を、それが本報告において主張した最大の論点であった。しかし〈事実性〉によって構成される世界観とは、近代自然科学によって保障されている「事実」的世界とは明らかに異なる世界観を要請する。そのため、〈事実性〉の可能性を探求するために、これから「他者」と「相互関係性」をキーワードとする世界の見方を模索していく必要があるだろう(発表段階では紹介しなかったが、そのための手掛かりとなるのが「有機体の哲学」を構想したイギリスの哲学者A・N・ホワイトヘッドである)。
発表者近影
(※掲載の写真は、すべて報告者の了承を得たものです)
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上智大学Sapientia会は、同大学院に在籍する学生の相互交流を目的とした横断的研究会です(運営は現在史学専攻による)。研究会誌『紀尾井論叢』の 発刊も行っております(全3号既刊)。今後も活動を継続して参りますので、研究会および雑誌に関心がおあり の方は、sapientiasophiaXgmail.com(Xを@に変換)までご気軽にお問合せください。