2016年6月12日日曜日

第8回Sapientia会研究会

20151219日(土)、第8Sapientia会研究会が行なわれ、3名の方に発表をして頂きました。いずれも博士後期ないし前期課程の大学院生による専門性の高い内容となっております。そうした中で分野を跨いだ興味深い議論が交わされるなど、本会の学際的側面が示される展開もあり、成功裡に終えることができました。


《第1報告》
 スポーツ紙と夕刊紙の「社会統合機能」の検証 
文学研究科新聞学専攻博士後期課程 松実明


本発表は、2013年度学位論文(修士)「スポーツ紙と夕刊紙の『社会統合機能』と『大衆性』の検証」を加筆修正したものの一部である。
発表報告の構成については、第1章では、先行研究をレビューするとともに、問題設定をすることをテーマとしている。本章では、大衆紙研究の枠組みのなかでの本研究の位置づけを明らかにする。そして本研究の視座である(1)社会統合機能、(2)中央と地方、(3)メジャー・シェア・ケアのメディア・コミュニケーション論に関する定義を示す。その後、仮説を設定するため、スポーツ紙と夕刊紙の変容過程を検討する。これらの変容過程を検討することで、スポーツ紙と夕刊紙の変容の特徴を明らかにし、その共通点と相違点をあぶり出した。
 第2章は、スポーツ紙各社の社史を用いた文献調査を行い、スポーツ紙の地方版の変容過程を明らかにした。
 3章は、社会報道、高校野球報道、地方版を対象に社会統合機能の視座から紙面分析を行い、これらの報道がどのような規範を提示しているのかを明らかにした。
 4章は、第2章で示した地方版の変容過程の特徴と、第3章で得られた分析結果をメジャー・シェア・ケアのメディア・コミュニケーション論の概念を用いてまとめ、スポーツ紙と夕刊紙の特徴を明らかにした。
5章は、第4章の分析結果を基に、スポーツ紙と夕刊紙のニュースの価値基準を考察するとともに、社会統合機能面からスポーツ紙と夕刊紙の共通点と相違点を明らかにした。

松実氏近影


《第2報告》 
後漢期の羌乱 ――東羌の誕生に関して――
文学研究科史学専攻博士前期課程 酒井駿多


本報告では後漢期における「羌」の存在と後漢王朝の対応についての考察がなされた。まず初めに、「羌」という表現は漢人からの呼称であり、当時そのように呼ばれた人々の自己同定と必ずしも一致しない概念であるということを確認した。そのうえで史料に目を通していくと、漢代という短い期間の中でも時代を経るごとに、漢と西北異民族との関係性の変化に応じて、「羌」の概念が拡大していき、それ以前には「羌」と呼ばれていなかった人々が漢人によって「羌」と呼ばれる現象が幾度も起こったことを明らかにした。
その一方で、後漢王朝の対羌政策については、章帝期ごろから護羌校尉を中心とする対羌体制の組織化を進めていったことを確認しつつ、安帝期以降に羌乱の規模が涼州の外まで拡大してからはそれらの組織が十全に機能しなかったことを指摘した。機能不全に陥った理由としては并州に東羌と呼ばれる「羌」が出現したことにより、それまでの護羌校尉の組織では対応しきれない部分があったと説明した。そのうえで、東羌の性質については西羌とは異なる部分が多く、今後より考察を深めていく必要があるとして報告を締めた。
質疑応答では東羌の存在や彼らが出現した地域の状況に関する質問がなされた。東羌に関してはそれ以前までの西羌が持っていた「解仇結盟」などの特徴がなくなっており、かなり異質なものである可能性を提示した。また、并州諸地域の状況に関しては漢王朝が行ってきた統治策などを考察しながら当時の状況を復元していく必要があるとし、今後の課題として明確に位置付けた。

酒井氏の報告風景


《第3報告》
 「四神相応」の変遷 ――古代陰陽師の「相地」考――
文学研究科史学専攻博士前期課程 中村航太郎


 報告者は現在「古代陰陽師の職能の形成と修得――「相地」をめぐる変遷から――」という題で研究を行っている。陰陽道研究では、80年代までは中国において成立した陰陽道が日本に伝来し定着したとする「中国成立説」が支持されていたが、90年代以降では陰陽道とは諸要素が中国より伝えられるも9世紀後半から10世紀にかけて日本で独自に形成され成立したものであるとする「日本成立説」が主流である。今回の報告ではその形成過程を考察するにあたり陰陽師の職掌の一つである「相地」に着目し、「四神相応」に注目しその内実に迫ることを志向している。
 まず、遷都や山稜の選定に関する相地の事例や、「地鎮」への陰陽師の参入過程を追うことにより、律令国家形成期において「相地」の重要性は高かったのではないか、との推測を示すに至った。つまり、中国的環境を導入するために陰陽寮の諸職掌(占筮・相地・天文・暦・漏刻)が設定・整備されたとも言え、その中でも相地は、当時の喫緊の課題である都城や陵墓の造営に深く関わっていたのである。
 だが、当時の陰陽師の相地の具体的な知識・技能は伝わっていない。そこで、ある程度推測する手掛かりになると目されるのが「四神相応」観念である。そこで日本と中国における四神相応の事例を列挙することで分析した。その結果、方角を正す形式の四神相応から山川道澤説の四神相応への変遷が連動していること、また敦煌文書の宅経の文言と日本の言説を比較すると完全な合致例はないものの意味的には同じものが確認でき、知識・技能の更新が図られていることを見出すことができた。
 質疑応答では、史料上の「相地」の文言の解釈について、また本論においての「相地」の定義についての補足説明が求められた。今後はさらに史料を読み込みつつ事例を分析するとともに、用語に対して自覚的に検討を進めていきたい。

中村氏による発表の一場面

(掲載写真は全て報告者の許可を得たものである)

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