10月12日(土)、第4回Sapientia会研究会が開催され、参加者は10名、神学専攻と史学専攻の院生が2名報告しました。両名とも後期課程ということもあり、レベルの高い報告に会場からは質問が絶えませんでした。また東洋と西洋という違いこそありますが、〈物神〉〈偶像崇拝〉という類似点の多いテーマを扱い、会場だけでなく報告者にとっても有意義な研究会となったようです。
以下に報告の要旨と、質疑応答の様子を紹介します。
戦時下の日本陸軍における〈物神〉信仰
文学研究科史学専攻博士後期課程 稲垣政志
稲垣氏の報告は、第二次世界大戦下における日本陸軍の信仰について、「物神」信仰という視点から考察し、その特異性を指摘したものである。通常、神格化しえない「物」について、天皇の権威を上乗せするかたちで権威付けし、さらにそれそのものが信仰の対象になっていった。具体的には直喩や軍旗などであるが、こうしたものへ絶対的な忠誠を誓うようになり始めると、それが陸軍内の命令系統を乱し、指揮系統に混乱をもたらした。ここに、陸軍の特異性があったと指摘した。
報告では今後の研究動向なども発表され、陸軍内に少なからず存在したキリスト教やイスラム教などの諸宗教信者が、このような事態にどのような方策をとったのかなどの比較研究についても言及した。
質疑応答では、「物神」という言葉の定義や、海外の軍隊における実例なども議論された。とくに後者は、ヨーロッパにおいては古代より「物神」信仰は常態化していたという指摘があった。
報告では今後の研究動向なども発表され、陸軍内に少なからず存在したキリスト教やイスラム教などの諸宗教信者が、このような事態にどのような方策をとったのかなどの比較研究についても言及した。
質疑応答では、「物神」という言葉の定義や、海外の軍隊における実例なども議論された。とくに後者は、ヨーロッパにおいては古代より「物神」信仰は常態化していたという指摘があった。
なぜユダヤ人は鳥の頭で描かれたのか?
――中世ユダヤ教彩色写本を巡る〈偶像崇拝〉の諸問題――
神学研究科神学専攻博士後期課程 平松虹太朗
平松氏の報告は「なぜユダヤ人は鳥の頭で描かれたのか?――中世ユダヤ教の彩飾写本を巡る〈偶像崇拝〉の諸問題――」という論題のもと、中世ユダヤ教彩飾写本の挿絵を巡る諸問題を取り扱った。まずは、導入部分でユダヤ教がどのような宗教であるかのポイントを説明。そこでユダヤ教が聖書のみならず、ミシュナやタルムードといった膨大な書物群の集合によって形成されてきた「書物の宗教」であることを確認した。
以下、平松氏の報告をまとめると次のようになる。ユダヤ教において書物は常に重要な役割を担ってきたが、その中でも13~14世紀にかけて主にラインラントで制作された奇妙な彩飾写本がある。それは人間の頭が動物の頭に置き換えられたものである。今回はその一例としてBirds’
Head Haggadahを中心に取り上げた。ハガダーとは、過越祭(ペサハ)の初夜に行われるセデルという夕食会で使用される式次第である。ユダヤ教徒にとって過越祭は最も重要な祭儀の一つであり、そこで使用されるハガダーも彼らにとって重要な存在であった。Birds’
Head Haggadahはその挿絵の人物像のほとんどが鳥のような頭部で描かれている。問題は「なぜこのハガダーの制作者はわざわざ登場人物たちを鳥の頭にして描いたのか」ということである。この問題をめぐる先行研究は三つ巴状態である。第一に鳥頭の表象はユダヤ人にとって良いものだったとする説、第二に鳥頭はユダヤ人にとって悪いものだったとする説、そして第三に鳥頭はハラハー的規制を守るための妥協策だった説である。今回は主にこの先行研究をそれぞれ見て行き、その妥当性を検討してみた。
そこで明らかになったのは、当時の思想的潮流であったアシュケナーズ系ハシディームの存在とその影響関係の有無(この存在が挿絵研究のミスリードになっている可能性)、種々の写本の挿絵間での類似点と相違点の考察(比較的方法論)は最終的に行き詰まりを見せること、結果として一冊の写本における挿絵にのみ集中する以外方法がないことを確認した。
その上で、バードヘッドハガダーの鳥頭が単にハラハー的制約を遵守しようとした敬虔主義者たちの行為や、あるいは単なるその場しのぎの妥協策であるとは一概に言えないことを発見した。ある説ではこの鳥頭はグリフィンであるとする指摘もあり、そこにユダヤ人の霊的本性と民族的特性を含意させようとしたscribeかパトロンの意志があったのではないか考えている。つまり、鳥頭の表象はユダヤ人のアイデンティティを示す図像であった可能性である。それゆえ現在広く流布しているバードヘッドハガダーの解釈も結局は一つの解釈にすぎず、どれか一つをあたかも真実のように認めることはできない。
どの研究者たちも収集した情報を駆使して首尾一貫した解釈体系を構築しようとするが、同じ素材でもそこから導き出される結論は今回見てきたように正反対のものになることもあるわけである。一つの出来事・事件・現象・現実を捉えようとしながら、多様な事象の断片からは結果として複数のそれなりに首尾一貫した解釈が同時的かつ並立的に生まれてしまう。このことは彩飾写本の研究のみならず、あらゆる研究という行為に普遍的に当てはまる原理ではないだろうか。
質疑応答では、神学専攻からの報告は初めてということや、分野の近い参加者もいたことで、様々な質問が飛び交った。その中でもとくに、平松氏がまとめとして挙げた部分に集中した。例えばユダヤ人の「民族的特性」や「アイデンティティ」とは何かということである。これらの概念の意味を平松氏なりに確定し、先行研究との差異をより明確にすれば、研究はいっそう深みを増すだろう。