2014年12月16日火曜日

第6回Sapientia会研究会

 11月29日(土)、上智大学12号館にて第6回Sapientia会研究会が開催されました。当日はあいにくの雨模様となりましたが、史学専攻の院生のほか、学部生も交え、活発な議論を行うことができました。ご参加くださった皆様、どうもありがとうございました。
 以下に報告の要旨と、質疑応答の様子を紹介します。今回の報告会では、対象地域こそ西洋が中心となったものの、卒論報告や研究動向、さらには留学体験といった、本研究会ならではの多岐にわたるテーマでそれぞれご報告をいただきました。ご参加くださった方には内容の再確認として、また今後のSapientia会研究会に興味のある方には、会の様子を知る一助としていただければ幸いです。



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<第1報告>
フリードリヒ・ハルコルト事始――19世紀プロイセンのとある企業家・政治家について――
文学研究科史学専攻博士前期課程 宮原愛佳


 今回の研究会では、まず宮原氏が『フリードリヒ・ハルコルト事始――19世紀プロイセンのある企業家・政治家について』の題で発表を行った。ハルコルトFriedrich Harkort(1793-1880)は、ルール地方に位置するハーゲンに生まれ、機械工場など多数の工場を経営したり、ドイツの鉄道敷設を提唱したりと、工業化に寄与したため「ルール地方の父」と認識されている人物である。ハルコルトは、工業分野のみならず、1830年のヴェストファーレン州議会への初選出から、プロイセン国民議会、北ドイツ連邦議会、ドイツ帝国議会と、1874年まで議員を務めており、政治分野においても業績を残している。しかし、後者に光が当てられることは少なかったように思われるとし、宮原氏はハルコルトの政治的活動について発表をした。まず、19世紀前半に問題となったパウペリスムス(大衆貧困)が、当時「かつての貧困とは異なる新たな貧困」とみなされ、原因・解決策をめぐって様々な案が出されて対立したという時代背景を説明した。そのなかで、ハルコルトがその原因を産業革命以前の状況に帰し工業の発達が貧困を解消すると説いたこと、ほかにも国民学校の状況改善や年少労働者の雇用規制など社会状況の改善に力をふるったことなど政治領域における活動を紹介した。
 質疑応答では、パウペリスムスの詳細などについての質問が挙がった。また、ドイツは農村部・工業部と地域差が大きくはたして「貧困」とひと括りにしてよいのか、という厳しい意見も出された。発表者にとってこのような指摘は今後の修論執筆のための糧となると思われる。



<第2報告>
海のテマの創設とビザンツ海軍の発展――海のテマの創設意義―― ※卒業論文報告
文学部史学科 神津佳於理


 神津氏は、これまでの研究の集大成としての卒業論文「海のテマの創設とビザンツ海軍の発展――海のテマの創設意義――」の内容について、報告を行った。本報告では、ビザンツ帝国中期の時代にあたる7、8世紀のビザンツ海軍について焦点を当て、主史料として『テオファネスの年代記』という一つの一次史料を設定し、その艦隊に関する記録に基づきながら、8世紀において行われた海軍テマの創設意義について論じるという形式をとった。
 本報告で、神津氏は、ビザンツ帝国の地方防衛システムの基本となるテマ制(軍管区制)の海軍への導入が、どのような意義を持ったのか、という点について明らかにすることを目的とした。7世紀に創設されたカラビシアノイという常設艦隊は、7世紀のアラブという新たな外敵勢力の海上進出に対し、効果的防衛を成しえず、最終的にはアラブによるビザンツの首都コンスタンティノープルの包囲を招いた。こうしたアラブ艦隊に対抗する形で、ビザンツはついに海軍にもテマ制を導入し、小アジア南岸を管区として追加的に与える形で、テマ・キビュライオタイという海軍テマを創設した。ここにおいて、11世紀まで保持されるビザンツの海軍の基本的な地方防衛システムが完成したのであった。テマ・キビュライオタイは、小アジア南岸に管区を持つことにより、7世紀のカラビシアノイよりも「常設」の側面を強化し、8世紀において東地中海の防衛の要衝となるキプロス島の効果的な防衛を達成するとともに、アラブ艦隊の活動を抑えることによって、その防衛艦隊としての目的を果たしたことを、ここで明らかにした。
 質疑応答では、艦隊に関わる特定の民族は存在したのか等の質問が寄せられた。特に、「小アジア南岸という地の交易等の側面での重要性はどのようなものであるか」という鋭い指摘は、今後の研究で深めていくべき点であると気付かされるものであった。
 今後は、今回の報告の成果と反省を踏まえ、諸史料を検討しながら9世紀から11世紀に至るまでのテマ・キビュライオタイの活動について、研究を継続していきたいと考えている。




<第3報告>
イタリア留学(2013年9月~2014年7月)体験報告
文学研究科史学専攻博士前期課程 櫻井麻美


 櫻井氏は、発表者はルネサンス美術を専門としており、中でも16世紀後半にローマ周辺で作られた庭園について研究している。庭園という空間的な作品を扱うという点、また16世紀後半の庭園史はわが国において未だ研究の蓄積が浅い分野であるという点から、現地での資料収集、調査の必要性を感じイタリアへの留学を決めた。
 今回の報告では、留学中の生活の様子と、発表者の研究対象である「聖なる森」と呼ばれる庭園の紹介を行った。
 留学前期はローマ大学のルネサンス美術の講義を通し概説を整理するとともに語学に慣れることに努め、留学後期には図書館での資料収集と現地調査を行った。調査では非公開の邸宅の見学許可を得るなどした他、調査で知り合った方のご家庭に招いていただき昼食をともにするなど、思わぬところでイタリアの家庭の温かさに触れる機会にも預かった。
 ルネサンス美術は今や我が国でも人口に膾炙するものとなったが、ルネサンスという言葉の中で取りこぼされているその他の多くの素晴らしい作品がまだまだ沢山存在する。今回の発表で留学を検討されている方に少しでも有益な情報を提供するとともに、ローマ郊外の森の中に潜む16世紀のある貴族の強烈な個性から生み出された驚異に満ちた庭園の魅力を少しでもお伝えすることが出来ていれば幸いである。
※写真は報告者撮影



<第4報告>
アレクサンダー・フォン・シーボルト研究・研究動向 
文学研究科史学専攻博士後期課程 堅田智子


  堅田氏は、研究テーマである「明治日本の『ドイツ化』」の中核となる明治政府外交官アレクサンダー・フォン・シーボルト(Alexander von Siebold, 1846-1911)に関する研究動向、およびシーボルト関連史料の所在、ドイツ留学中に実施したアーカイブ調査について報告を行なった。
 シーボルト研究は、①シーボルト家史として、②シーボルト個人の人物史としての研究に大別される。これまでは主に、日本史、日本学を専門とする研究者によるものであり、外交官であったシーボルトの全体像が十分に検討されていたとは言いがたかった。また、日独両国に史料が点在し、その史料も多言語で記されていたため、史料上の制約の克服こそ急務とされた。また、そもそもシーボルトが外交の最前線で、「実働部隊」として活動したため、命令者であった伊藤博文、井上馨、青木周蔵らが直接、シーボルトについて語ることを避けたため、日本側の史料で存在が「抹消」されたことも、シーボルト研究を妨げていたという。こうした先行研究での問題を指摘した上で、日独外交史の視座からの新たな研究として、自身の研究もふくめ、研究動向を説明した。
 続いて、ドイツ留学中に実施したブランデンシュタイン城シーボルト・アーカイブに関する調査の概要報告を行なった。二度にわたる日本側の大規模資料調査が実施されているが、これらは資料目録作成が主たる目的であるため、氏は、今後、シーボルト家を研究対象とする研究者が今以上に連携し、資料の詳細な分析が必要であると結論づけた。
 シーボルトに関する意図的な史料上の「抹消」について、なぜ、このような現象が起きたのか、他の御雇外国人でも同様の事例があったのか、質問がなされた。明治政府の御雇外国人政策では、御雇外国人から日本人に知識が十分に授けられた後、御雇外国人は解雇されることが、あらかじめ想定されていた。本来、御雇外国人の日本での活動について、一定程度、日本側の史料に残されたものの、シーボルトの場合、活動内容の機密性の高さ、御雇外国人政策から脱却しようとする時期でありながら、ドイツ人への依存を露呈させる危険から、こうした史料上の問題が生じたと、氏から補足説明が加えられた。
 

(※掲載の写真は、すべて報告者の了承を得たものです)

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  上智大学Sapientia会は、同大学院に在籍する学生の相互交流を目的とした横断的研究会です(運営は現在史学専攻による)。研究会誌『紀尾井論叢』の発刊も行っており(全2号既刊)、2015年夏には第3号の発刊も予定しております。今後も活動を継続して参りますので、研究会および雑誌に関心がおありの方は、sapientiasophiaXgmail.com(Xを@に変換)までご気軽にお問合せください。